のっぺり

基本的にネタバレに配慮しません。アイドル(ほぼハロプロ)、漫画アニメゲーム、本、ごはんその他の話

この人結局また鞘師の話してる

コロナ禍になって2年くらい経とうかという現在、アイドル、アイドル以外も、現場参戦系のイベントの予定を入れないと決めている。

チケットを買うのは開催の数ヶ月前なので、感染症の流行具合は全く読めない。というか、まぁこんくらい経ってたら収まってるでしょ、という推測がこの2年ことごとく外れたので全然読めないということがようやっと分かった。

 

開催日が近づくにつれ上がっていく陽性率を見て、いっそイベント自体が中止であれば諦めもつくのだがという他力本願も虚しく、催事とはそう簡単に中止されるほど簡単に開催を予定されているものではない。感染症の流行に社会が慣れてきたことで、中止されなくなってきたというのもある。

それで毎回、折角チケットを買ったのに行くのか?行かないのか?見たくないのか?お金が勿体なくないか?とか色々考えた上で決断しなければならないこと、決断した後にあれで良かったのか?と考えてしまうことが非常にしんどくなってしまった。そしてここ数ヶ月、キャンセルの効かない予定を入れるのをやめた。

 

今も在宅なりの活動(?)はしていて、音源や映像のアイドルには元気付けられている。在宅とは言え今はWEBという手段もあるし外向きな発信だって出来るはずなのだが、何となく考え方が内向きになる。そもそも私は在宅のドルオタだったから、こっちが本性だ。現場に行かないとリアルタイム性が失われて、今更な感情を、誰に共感してもらうでもなく煮詰めてしまう。

そもそも私は在宅のドルオタだったのだ。

 

現在の鞘師さんをアイドルと呼ぶのは間違っている気もするけど、アイドル時代に好きになってしまったからついそう思ってしまう。

 

改めて昔の映像に向き合って、鞘師のすごいところは圧だと感じる。2019年のひなフェスを観ると未だに身震いする。あのステージの空気を持っていく力強さの源は何なんだろう。強烈な、私を見ろ!の圧。視線を縫い留める力。

 

まず強く感じるのは彼女自身の視線の力。カメラを真っ直ぐ見つめていることもあるが、カメラの存在を感じさせない。私たちの視線と直接かち合って、見ろと要求してくる。

アイドルなのだから、こう見られるかな、という美意識的なものは不可欠で、彼女も意識していない筈がないんだけど、とにかく何故かそれがないかのように見える時がある。

演者からこう見られたい、こう見てほしいという要求を感じた時は、ついそれに寄り添って観る。その意図を表現から汲み取れることがまた楽しいことも知っている。

もちろん、鞘師にだってそれが全くない訳ではない。だけど見ろ、の圧が強くて、こういう風に、というような、互いの意識の絡み合いが薄いように感じる。その寄り添わせなさに、多分、神性を感じてしまっている。舞台の上から挑まれている感じがする。

 

同じタイプのアイドルは他にも居ると思うが、彼女特有の魅力は、しっかりと私たちの視線を捕まえた上で、見ろと要求してくるところだと思う。手の届かない場所に居るはずなのに、こちらを見てもいる。一方的に腕を引かれている感じもするけど、能動的な自分の目の存在を意識してもいる。

彼女がMVより舞台でより輝くように見えるのは、実際に観客が目の前に居るかどうかがポイントな気がする。たった今、見られているか。

 

勝手に感じている、アイドルとの一種のコミュニケーションの話。一方的だからコミュニケーションとは言わないか。